今を生きる
人はつい、先のことを考えすぎてしまう。
どうなりたいか。
うまくいくか。
失敗しないか。
考えること自体は悪くない。
だが、先ばかりを見ていると、今が薄くなる。
今やっていることが、ただの通過点になってしまう。
今を生きるというのは、刹那的に生きることじゃない。
何も考えずに動くことでもない。
今日という一日を、ちゃんと使い切ることだと思っている。
目の前の仕事に集中する。
目の前の人の話を、ちゃんと聞く。
今日やると決めたことを、今日やる。
それだけのことだ。
だが、この「それだけ」がいちばん難しい。
未来は、今の積み重ねでしかできない。
だが不思議なことに、未来を意識しすぎるほど、今がおろそかになる。
先の不安は、目の前の手を止める。
理想のイメージは、いまの一歩を軽く扱わせる。
結果として、未来を守ろうとして今を削ってしまう。
逆に、今を丁寧に生きていると、先のことは自然と形になっていく。
今を生きている人は、焦らない。
比べない。
必要以上に振り返らない。
過去は変えられない。
未来はまだ分からない。
だから、手を入れられるのは今だけだ。
今日の自分が、昨日より少しだけ誠実ならいい。
昨日より少しだけ集中できていればいい。
それで、十分前に進んでいる。
今を生きるというのは、大きなことをすることじゃない。
小さなことを、雑に扱わないことだ。
一つの返事。
一つの確認。
一つの片付け。
一つの約束。
そういう小さなところで基準を落とさない。
今日の一日を、ちゃんと終わらせる。
その繰り返しが、気づいた時には、ちゃんと前に連れていく。
だから今日も、今を生きる。
それ以上でも、それ以下でもなく。
そんな考え方の原点に、ひとつ忘れられない出来事がある。
今から十五年ほど前、当時96歳だった祖父に会いに、老人ホームへ顔を出した時のことだ。
長い白ひげを生やし、ベレー帽をかぶった祖父が、短冊を一枚渡してきて、
「何か好きなことを書け」と言った。
何を書こうか迷っていると、祖父は自分の短冊に、迷いなくこう書いた。
「今を生きる」
そして、こんなことを言った。
人はな、本や経験を積めば賢くはなれる。
でもな、馬鹿にはなれんのや。
わしは、馬鹿になりたいんや。
ボケでも痴呆症でもない。
夢中になって、周りが見えんくらいの、そんな馬鹿になりたいんや。
私の人生より2周以上長く生き、戦火をくぐり抜けた来た祖父。
当時は、その言葉の意味を全部は理解できてはいなかった。
けれど今なら、少しだけ分かる気がしている。
きっと祖父は、何も考えずに生きたいと言ったんじゃない。
何歳になっても、「今やっていること」に没頭し続ける時を、もう一度持ちたかったんだと思う。
人は歳を重ねるほど、賢くなる。
だが同時に、慎重にもなり、計算も増え、
今この瞬間に飛び込むことが、だんだん難しくなる。
だからこそ、祖父は、
もう一度「今」に夢中になれる自分に戻りたいと、あの短冊に書いたのかもしれない。
今を生きるというのは、
先を考えないことではない。
過去を忘れることでもない。
ただ、今この瞬間に、自分の神経と時間をちゃんと使うことだ。
目の前の仕事に手を抜かない。
目の前の人との会話を流さない。
今日やると決めたことから逃げない。
派手さはない。
だが、そこにしか本物の手応えは残らない。
祖父の短冊を思い出すたびに、そう思う。

