趣味というもの

趣味という言葉を出すと、
どこかで「上達」や「結果」が求められる空気がある。

続ける理由を説明できるか。
人に語れるほどの成果があるか。
時間を使う以上、何かを“積み上げていないといけない”気がしてしまう。

けれど、そこに趣味の本質はないと思っている。

趣味は、生産性の対極にある場所でいい。
もっと言えば、何も背負わないための場所でいい。


仕事は、常に判断がつきまとう。
目の前の不具合だけを直せば終わりではない。

「ここを直して本当に止まるのか」
「同じ条件なら再発しないか」
「修理か、更新か、いま決めるべきか」
「止められない現場で、どこまで踏み込むか」

正解が一つではない状況で、
限られた情報と時間の中、責任だけは確実に重い。

期待がある。
段取りがある。
予算がある。
稼働が止められない事情がある。
そして失敗すれば、誰かの損失になる。

この緊張の中に、人はずっと居続けられない。
張りつめた糸は、張り続ければ強くなるのではなく、切れやすくなる。

だから必要なのは、気分転換ではない。
「たまに楽をする」でもない。

仕事を続けるための前提として、
一度、背負うものを全部下ろす時間が要る。


趣味の時間は、評価と役割から外れる。
社長でも、職人でも、誰かの期待でもない。
ただ一人の人間としてそこにいる。

うまくやらなくていい。
意味がなくてもいい。
成果が残らなくてもいい。
誰にも褒められなくてもいい。

その代わり、ひとつだけは確かなものがある。
自分の呼吸が戻る。

没頭しているうちに、頭の中が静かになる。
考えすぎていたことが、必要以上に大きく見えていたことに気づく。
熱くなっていた神経が、少しずつ平熱に戻る。

そうやって整った状態で、また現場に戻る。
判断の質は、気合いでは上がらない。
整った頭と身体からしか生まれない。


趣味を持つのは、甘えではない。
むしろ壊れないための技術だと思っている。

「逃げる」という言葉は、弱さのように聞こえるかもしれない。
でも、逃げ場がない人ほど危うい。

張りつめたまま走り続けると、
いつか判断が雑になる。
人に当たりが強くなる。
視野が狭くなる。
そして自分でも気づかないうちに、仕事の精度が落ちていく。

それは職人として一番避けたい。

自分は、長く続けたいだけだ。
仕事も、人生も。

だから、あえて力を抜く場所を持つ。
あえて“何者でもない時間”を確保する。


趣味は、前に進むための後退ではない。
自分の中の歪みを直し、精度を戻すための整備だ。

整備された人間は、また現場で正しく判断できる。
それが、結局いちばん強い。

そう思っている。